コメント

漫画家

ちばてつや

刮目すべき記録
「今後の世界平和のために」という美名のもと日本人たちを裁いた、その国々はそれまで何をして大国になり得たのか。その後少しでも世界を平和に導くことが出来たのか。欺瞞に満ちた裁判に憤りながら、では日本が歩むべき道筋とは、どんな形だったのだろう、と深く考えさせる記録。

現代史研究家・
ノンフィクション作家

保阪正康

鎖国を解き、国際社会に勇んで出た日本。一等国にまで登りつめ、そして崩壊する。
その崩壊から新しい出発へ、東京裁判は節目にあたる「史実」である。
この史実を理解することは、次世代が歴史に生きるということだ。

映画監督

伊藤俊也

『プライド 運命の瞬間(とき)』を作る時、私は本作を反面教師とした。
構想や壮大、東京裁判を通観しつつも戦前史から戦後の動向までを一つの歴史解釈として提示する試み。だが、ドキュメントというには説明過多、解釈先行が惜しまれる。私は劇映画ながら、弁論証言場面は裁判記録に拠り事実をもって事実のみを語らしめようとした。

映画監督

原一男

真に偉大なドキュメンタリーである。日本は戦争に負けて民主主義が導入されたものの、戦後史の中でその民主主義の魂・精神が崩壊して行くが、そもそもの源が、極東国際軍事裁判に存在することが良くわかる。
日本の民主主義が未曾有の危機にある今こそ我々は、この作品=歴史から学ぶべきことが山ほどある。

映画監督・作家

森達也

人はどこからきてどこへゆくのか。そしてこの国はどこでどう変わってどこへゆくのか。リマスター版『東京裁判』を観ながら考える。僕たちが暮らすこの国の原点のひとつが、まさしくここにある。

大駱駝艦主宰・
舞踏家・俳優

麿赤兒

凝縮された、たった4時間の映像の密度に息もつけない!
人類はこの宿題に解を得ることができるのか、
その苦悩のうちに滅亡するのか。
そして私は遂に哄笑してしまうのだ!

劇作家・演出家・燐光群主宰

坂手洋二

凝『東京裁判』は二度観るべし。
封切りの年、二番館の三軒茶屋中央で、観た。もう一度観ることができて、よかった。今この時代に、重く響く。
「戦争犯罪人」とは、何か。それを思うだけで、眩暈がする。「歴史の一ページ」ではない。そこには、具体的な、各々の価値観を生きた人間たちがいる。戦争という形で他者を蹂躙することを、当然のこととして、選択した者たちがいる。
「人間宣言」をした昭和天皇が免罪されたという経緯の胡散臭さ。天皇の責任を追究する判事ウエッブに、もうひと頑張りしてもらいたかったと思う。
様々な「都合」によって、戦時も、戦後も、当事者にとっては極めて重大なことが、いとも軽々と、決定されていく。「法廷の椅子が二十八しかないために罪を免れた者もいる」というナレーションには、戦慄する。
被告どうしの「なすりあい」の醜さ。そして、「これは日本軍隊の組織の中に育まれた非人間性の表れであった」というナレーション。私たちは、その「非人間性」が現在の日本に温存されているという事実を、認めざるを得ない。
それにしても、この国が、歴史に学ばない国であるということを、あらためて、とことん思い知らされる。

弁護士

馬奈木厳太郎
(『誰がために憲法はある』製作)

現在の日本という社会は、1947年憲法の制定によって設立されたことになっている。 それに先立ってあったのが、ポツダム宣言の受諾による敗戦と、1952年条約で判決を受諾することになる極東国際軍事裁判(東京裁判)である。
すなわち、いまの体制は、旧体制と断絶し、それを否定し、そこから転換することを対外的に約することによって成立している。
その東京裁判を丹念に追った本作は、いまの体制の原点を知るのに必見のドキュメンタリーである。
原点だけではない。現在の地点という意味での現点を知るためにも、観られるべきである。
東京裁判は、1931年から1945年までを対象としている。つまり、それ以前の行為、たとえば植民地支配などは対象となっていない。天皇も扱っていない。
代替わりにしても、輸出にかかる優遇措置適用にしても、少女像にしても、現点が抱える多くの問題は、原点にかかわるものである。
裁判で問われたことと問われなかったことを知ることは、この原点の限界と脆弱性を自覚することであり、将来に開かれた責任を痛感することでもある。
原点を受け入れるにせよ、受け入れないにせよ、無知なるままでの怒りは愚でしかない。
知らなければならない。
そして、いまの体制を旧体制よりも望ましいと思うのであれば、旧体制の残滓を否定し続けなければならない。それが将来に開かれた責任を履行することなのである。
本作は、その営為を可能にしてくれる。
『東京裁判』を観なければならない。しかし、観て終わりではない。

映画『東京裁判』